英語を勉強するというモチベーション

海外に行くと日本語が通じないから英語を話すしかない。しかし英語もろくにはなせず非常に苦労する。まあよくある話だ。話したことがないのだから話せるわけがない。聞いたことがないのだから、聞けるわけがない。(相対的に社会的に通用するほどには)読んだ事がないのだから読めるはずがない。書いたことがないのだから、書けるわけがない。当たり前だ。
つまり常識的なレベルで話したり聞いたり読んだり書いたりすることが必要だ。日本人が日本語を話したり聞いたり読んだり書いたり出来るのは、普段話したり聞いたり読んだり書いたりしているからであって、日本人が生まれながらにしてそれをできるわけではない。(実際読めない人も書けない人も多い)
だからもし英語を使いたいのであれば英語についてのそれらの行為を行う必要があるわけだが、当然時間も気力も体力(?)も使うことになる。で、代わりに何を得るというのだろうか。そう考えたときに英語を勉強する時間があるなら自転車の練習をしたい、だとかカートを練習したいだとか思うのも無理からぬことだ。まあこんな日記を書いている時間があるならば勉強すればいいという考え方はあるだろうが。

というわけで10日間のオーストラリア旅行で得たモチベーションは緩やかに減退しHuluでX-Filesを見るというところに落ち着いた。これはこれで面白いのだが、果たして勉強になっているのかというと、もちろんそんなわけない。じゃあ意味がないのかというとそうでもない。まだF1を知る前X-Filesは自分にとって欧米世界の全てだった。なによりあのドラマのやすっぽさがいい。リアルに普通の街角で、普通のボロいモーテルで、ロケをしてる。これが映画だったらこうはいかない。せめてセット的に物事を整えて少しは絵になるように気を使うってもんだ。そういう”気の使われていない”素顔のアメリカを描いているという意味でX-Filesは凡百のハリウッド系映像とは一線を画する。汚らしいのがいい、とは言わないが、世界は汚らしいものなのだから自分が存在するはずのありのままの世界を疑似体験するのは”その世界に加わりたい”モチベーションになっているはずだ!

という言い訳を考えてただドラマを見ているだけの自分を納得させようとするのって、どうなのよ