支援の品格

先日フィリピンの台風に際し組織の後押しもあって義援金なるものを寄付させていただいた。額としては大きくはないが小さくもない。ただ、この支援というものの仕方に若干の疑問がないわけではないのだ。
だって、今まさに住むところを失い、食うものにも寝る場所にも事欠いている人たちに対して、カネを出しますよというのは、仮にそれが最も必要とされているとわかっていてさえ、何か釈然としないものを感じるのは自分だけではないはずだ。

当職はかねてから社会貢献のあり方について考えてきた。その答え、いま行き着いた場所の一つがけんけつであり、スポーツ大会におけるぼらんてぃあなわけだが、前者はともかく、何か割り切れないと感じている。というのも社会貢献というのは額の大小ではなく人類が共に苦難を乗り越えて行こうという共通認識に他ならなず、であれば、ある意味競争の結果として蓄積された(当職のわずかばかりの)経済的価値を提供したとして、それはもともと人類に共通に分配されるべきものであり、支援したことにならないのではないか、という懸念が常につきまとうからだ。(いわゆる、先進国は、それ以外の国から市場の非効率を利用して搾取しているという考えに基づいており、特に欧州とアフリカの間でこのような考え方は根強い。)

なんとなれば、本来搾取した経済的価値の一部を”返還”して、それを支援である、痛みを分かち合うと言っても白々しいと”返還している人”が思ってしまっているというのは大きな問題である。

もとい、カネを出すというのは支援の仕方としては格として最低の行為である。想像してみてほしい。献血で社会貢献をしたいと、ある人は思い立つ。しかしめんどいのとそもそも3ヶ月に1度しかできないなどの理由で誰かにカネを渡しその人に献血してもらったとする。確かにエンドの人にとっては供給される血液が増えた事に変わりないのだろうが、この一連の行動に対し、趣旨に照らして適切であると考える人がどれだけいるだろうか。まあ、ゼロに近い事は言うまでもない。しかし昔は実はそうではなかったんじゃないかと当職は推測している。昔の資産家には私財を投じて病院や福祉施設を建設した偉人は多いし、そうした行動は社会的に比較的受けいれられていたと考えられる。

しかし今は・・・上記の通りである。

と文句を言ってみたところで状況が変わる訳ではないのだから、支援の品格を担保する為には”カネを出す”以外の選択肢を個々人が模索する日々が続く時代なんだろうと思う。この点にこそ、残念という言葉がふさわしいのが、残念だ。